2018-05-17 第196回国会 衆議院 消費者問題に関する特別委員会 第6号
○森(夏)委員 ある高校であった話ですが、十八歳の高校生が学校内で信仰心をあおる勧誘をし、勧誘をされた側は断り切れず、信仰施設に連れていかれ、説明を聞いたり、お守りの購入もしておりました。高校三年生で、大学受験を控え、何かにすがりたい思いもあったものだと思います。 学校に被害の相談があった時点では、既に十人近くの生徒が勧誘され、断れず、入会する寸前になっておりました。
○森(夏)委員 ある高校であった話ですが、十八歳の高校生が学校内で信仰心をあおる勧誘をし、勧誘をされた側は断り切れず、信仰施設に連れていかれ、説明を聞いたり、お守りの購入もしておりました。高校三年生で、大学受験を控え、何かにすがりたい思いもあったものだと思います。 学校に被害の相談があった時点では、既に十人近くの生徒が勧誘され、断れず、入会する寸前になっておりました。
それが放送されたり報道されることによりまして何らかのメッセージが伝わってしまうということはあり得るかもしれませんけれども、私自身は、一人の日本人として、自分の信仰心に基づいて参っているわけでございます。
昔はアリの行列と言われるぐらい、あの深山の中を信仰心を持って歩かれたという、そういうものですから、そういうものを現代人は味わいたいけれども、非常に短い時間の中でそれができませんので、その近くまでという趣旨で私申し上げたわけでございまして、熊野古道は和歌山県、三重県の方からも行けるわけですけれども、その近くまでは道路を整備をして、そしてそこから行っていただく。
翻って、いろいろと今までの経過を見ると、これは昭和二十年九月十五日の文部省の新日本建設の教育方針というものの章でありますが、九番目の宗教というところで、国民の宗教的情操を涵養し、敬けんなる信仰心を啓培し、そして神仏をあがめ、ひとりを慎むの精神を体得せしめ、道義新日本の建設に資する云々という文章もある。
やはり、そういう意味では、国が法律で定めると、そのときそのときの国家、政府の解釈によって特定の価値観が押しつけられるということにもなりかねないわけなので、宗教そのものはもちろん尊重しなくちゃいけないんですけれども、公教育の中で教えるということが、今度は、育てるという信仰心、宗教はつまり信仰にかかわるわけですから、その信仰心を育てることに教えることがすぐなっていくような形で教えるということは、非常に内面的価値
ただ、戦後、占領の影響もあるでしょうが、日本国民自身が、さきの大戦に対する反動とかショックとかで、日本人の当然の感情としての自国の歴史や文化に対する愛着、あるいは信仰心、あるいはそれらに基づく道徳心、こういったものがなかなか教育の現場、教育論議ではタブーになってしまった嫌いがあるというふうに思います。そういう意味では、戦後の教育論議の中では空白が生じていた。
信仰心厚いイスラム教徒の男性であるならば、結婚した女性をイスラム教徒にしないまでも、例えばユダヤ教徒だとかあるいはキリスト教徒にするかもしれません。 それはそれで許されるわけですから。それで済んでいたわけで、たまたま結婚した男性がイスラム教徒であったと、これで済むんですが、必ず問題があるのはその男性が母国に帰ったときです。
非常に信仰心が厚い。だからどうこうということは言っていません。その事実を我々は知るべきだということ、そして、我々は何げなくふだん生活していますが、なぜ今年が二〇〇三年の三月何がしなのか、なぜ一週間は七日あるのか、なぜ七日のうち一日が休みになっているのか。私たちは何げなく生活していますが、すべてに理由があって、この理由によって世界が大きく回っていく。
日本と同じようにいわゆる第二次世界大戦を起こした敗戦国でありますドイツ・バイエルン州憲法においては、精神と人格の陶冶、神に対する畏敬、信仰心の尊重、人間の威信の尊重、克己、責任感、進んで他人を助ける気持ち、真善美に対する感受性の啓発、民主主義精神、バイエルン祖国及びドイツ国民への愛、こういったものが書かれております。
先ほど申し上げましたように、やはりそれは、さまざまな信仰心あるいは心の問題に対して介入していったナチスというものの過去があって、そういうことに対する規定というのは最初から入ったのであろうなというふうに推測されるというぐらいしか申し上げられません。
そして、ここでポイントが、そのイスラム主義者の多くというものが西洋の影響を受けたモダニスト、ここでつまり一般に宗教から世俗へといいましょうか、社会学にしても歴史にしても世俗化という考え方がありまして、これは日本人のある意味では常識になっていますけれども、この世俗化理論からいったら、宗教というのは近代化が進めば進むほど、何というか生活に占める割合というのは非常に小さくなり、個人の信仰心の問題、若しくは
それで、報道によって私が拝見をしました限りについて申し上げますと、私は、森総理とは随分長いおつき合いでございますが、森総理から、まあ、こういう言い方もどうかと思いますが、時に、お話の中に、信仰というものは大事なものだ、信仰心を持つということは大事なことだというようなことを言われていたような記憶は持っております。
逮捕され、比較的長い期間身柄を拘束されていたとしても、かえってオウムに対する忠誠心や信仰心を強固にしていく信者がどれほどいたでしょうか。単にオウムから引き離して隔離しておけばいいというものではありません。 ただ、心のケアが重要だということで行政が相談室のようなものをつくっても、オウム信者がすぐにそこを頼りにするということはちょっと考えにくいと思います。
それはすべてオウム真理教の教義に基づく、信仰上は正しい行為でありまして、信仰心が強ければ強いほど、あの殺害や何かについては正しいと信じて疑わなかったわけでありますから、素直で純粋な、あるいは従順な末端の信者の人たちは全く危険がないというふうに考えるものではなくて、素直な、本当に純粋な、あるいは穏やかな性格を持った人が、その信仰に基づいて凶悪な犯罪に何のためらいもなく入り込んでいくことができるというところに
ある意味では、人間が生かされているという中で、信仰心というか宗教的な段階、そういうのをひっくるめていろいろやると、余りもうからなくても、要するにほどほどにもうかって皆さんに喜んでもらえれば誇りも自信も出てくるんです。 そういうことをどう国民の方々に理解していただくのか。
この中にもベギンとサダトのあのキャンプ・デービッドの和解のことがございますが、この和解の裏に、敬けんな信仰者である、信仰心というのは彼らの人格、歴史的洞察、政治的信念を形成していたというような、これが予想以上に大きく働いたんだというようなカーターが書いた文章がございまして、大変感銘深く思っておるわけなんです。
私は、特に政治家が信仰心を持ち、政策や立場の違いを超えて和解し、調和し、許し合う心を錬磨することは、政治の自浄能力を高めるために極めて大切なことであると思います。しかし、そのことと、宗教団体が政治権力を行使してはならないという憲法二十条の規定の問題とは全く別問題であります。 宗教は、絶対的なるものへの畏敬であり、疑うことなく信ずることであります。
例えば、宗教法人が信者の要件として宗教の教義にかかわるような内容を規定したとき、あるいは信仰心厚き者とか規定したとき、裁判所が判断できないような場面が出てくるんではないかと思うんですけれども、この点はどなたにお尋ねしたらよろしいのかわからないんですけれども、法務省になるんでしょうか。そういう問題が出てくるんではないかという一般論で結構です。
例えば、だれそれのとかこれこれの教義を深く理解し信仰心厚き者、これを信者と認めるとか、あるいはだれそれ何々の教義に背かずこれを疑いなく信ずる者とか、こういう決め方をする場合がむしろ自然じゃないかと思うわけなんです。宗教法人から見まして信者を定める場合はこういう規定でもよろしいわけですね。
それからもう一つは、向こうは宗教というものが非常に日本よりも、宗教心が多いと言ったらまたしかられるのかどうか知りませんが、日本人よりは私は信仰心が厚い国民の方が多いんじゃないか、しかもその大部分はキリスト教系統が非常に多いことも事実でございます。そういう中で、宗教で一つの道徳基準というものがだれかれ言うとなくつながっているということも事実であります。
日本の風土の中で、日本の医者の宗教的信仰心や倫理的なものはやはりキリスト教を背景にしている欧米諸国とは違いますから、そういう点では倫理的な面で非常に疑問がある点もあるし、それからきっちり物事を説明するという習慣にない中ですから、このまま進んでいくと非常に危険な気がします。だから、実際に移植を進めていく中でも、その点の信頼関係がきっちり確立されていくような道を探らなければならない。
アメリカ人は大変信仰心の厚い、宗教心の厚い国民であります。国民の八割が宗教心を持っておると伝えられております。そこで、日本人にとって米というものはアメリカ人の皆さんにとってクリスマスツリーのようなものであるというようなことを加瀬さんはアメリカ各地で説いて歩かれたそうであります。